日いづる処の美の日誌

光梅|美しいものを慈しむくらしの記録

泉岳寺を訪ねて|赤穂義士(忠臣蔵)の歴史が残る寺院へ

高輪神社をあとにし、第一京浜を約8分歩く。
やがて、都営浅草線・京急本線の泉岳寺駅が見えてくる。
その駅のすぐそばに、江戸時代の悲劇と忠義の物語を今に伝える寺院「泉岳寺」がある。

泉岳寺には、これまで何度か足を運んだことがある。

特に、年末年始に忠臣蔵のドラマが放送されると、赤穂義士のお墓参りに行きたくなる。

今回は近くまで来たため、泉岳寺へ寄ることにした。実は、一人で訪れるのは初めてだ。

まず出迎えてくれるのは、中門である。

江戸時代の天保7年(1836年)に再建され、昭和7年(1932年)には大規模な修理が行われた。

正面に見えてくるのが、山門だ。

現在の山門は天保3年(1832年)に再建されたもので、赤穂義士たちが実際にくぐった山門とは異なる。

右手には「大石内蔵助良雄銅像」。

この銅像は、泉岳寺へ寄進され、大正10年(1921年)12月14日に除幕された。内蔵助は連判状を手にし、凛とした姿で佇んでいる。

そして、本堂である。

旧本堂は第二次世界大戦中の東京大空襲によって焼失した。現在の本堂は、その後、昭和28年(1953年)12月14日に落成した鎌倉様式の建築だ。

正面に掲げられている「獅子吼」の額は、「ししく」と読む。獅子吼とは、百獣の王である獅子が力強くほえる姿になぞらえ、お釈迦様が真理を力強く説くことを意味する仏教の言葉だ。

泉岳寺とは

泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪に位置する曹洞宗の寺院。正式名称は「萬松山 泉岳寺(ばんしょうざん せんがくじ)」という。

その歴史は、慶長17年(1612年)、徳川家康の命により、門庵宗関(もんなんそうかん)を開山として、江戸の外桜田(現在の千代田区日比谷公園周辺)に創建されたことに始まる。

その後、寛永18年(1641年)の大火により伽藍を焼失したが、3代将軍・徳川家光の命により、毛利家・浅野家・朽木家(くつきけ)・丹羽家(にわけ)・水谷家(みずのやけ)の五大名の手によって再建され、現在の高輪の地へ移転した。

泉岳寺は、播州赤穂藩・浅野家の菩提寺として深い関わりを持つ。元禄14年(1701年)に始まり、翌15年(1702年)の討ち入りへと至った赤穂事件を経て、主君である浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)や、赤穂義士たちが眠る寺として、その名は全国へ広まることとなった。

現在も境内には、浅野内匠頭や赤穂義士の墓所をはじめ、ゆかりの品々を収蔵する記念館などが残されている。300年以上前の歴史に思いを馳せながら、多くの参拝者が訪れる寺院である。

赤穂事件とは

赤穂事件とは、元禄14年(1701年)に江戸城内で起きた刃傷事件(にんじょうじけん)を発端とし、その後の吉良邸への討ち入り、そして赤穂義士たちの切腹に至るまでの一連の出来事を指す。

その後、赤穂事件は「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」として、人形浄瑠璃や歌舞伎の人気演目となり、時代を超えて語り継がれる作品となった。

事件の始まりは、元禄14年3月14日、江戸城本丸御殿にある松の廊下で起きた。

播州赤穂藩の藩主であった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、幕府の役職である高家肝煎(こうけきもいり)を務めていた吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかったことが発端だ。

高家肝煎とは、江戸幕府において、将軍家の儀式や礼儀作法を担当する「高家」の中で、その役目を取りまとめる責任者のような役職である。

浅野内匠頭は、朝廷からの使者を迎える儀式を担当する役目を命じられており、その作法を吉良上野介から教わる立場にあった。

しかし、江戸城内で刀を抜くことは大罪とされ、浅野内匠頭はその日のうちに切腹を命じられた。

さらに、浅野家は幕府から改易(かいえき)処分を受けた。

改易とは、大名から領地や身分を取り上げ、家を取り潰す重い処分のことである。これにより赤穂藩は取り潰され、多くの家臣たちは主君を失い、浪人(ろうにん)となった。

主君を失った赤穂藩士たちは、その後の生き方を大きく揺さぶられることとなる。

大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心とする旧赤穂藩士たちは、主君の無念を晴らすべきなのか、それとも新たな人生を歩むべきなのか、長い間葛藤を重ねた。

そして元禄15年12月14日、大石内蔵助率いる赤穂浪士たちは、江戸本所にある吉良邸へ討ち入り、吉良上野介を討ち取ったのである。

討ち入り後、赤穂浪士たちは吉良上野介の御首(みしるし)を浅野内匠頭の墓前へ携え、本懐を遂げたことを報告した。

その後、幕府の裁定により、赤穂浪士たちは切腹を命じられ、その亡骸は主君である浅野内匠頭が眠る泉岳寺へ葬られることとなった。

赤穂義士墓地

本堂に向かって左手に「義士墓入口の門」がある。

この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものだ。

墓所へ入る際には、お線香料を納める。

お線香を受け取り、墓前に1〜2本ずつお供えすることができる。

また、夏季には「うちわ」をいただけるそうだ。

泉岳寺の赤穂義士墓所を訪れて感じたこと

墓所へ足を踏み入れた瞬間、なぜか涙が出そうになった。

ひとりアラ還女性が、ここでポロポロ涙を流すわけにもいかない。必死にこらえる。

「あぁ、前に訪れた時もそうだった……」

胸に込み上げてくるものがあり、言葉にしようとすると涙が出そうになったことを思い出す。

「この涙は、何なのだろう」

そう自分に問いかけていると、「無念」という言葉が浮かんできた。

まずは、浅野内匠頭の墓前に手を合わせた。

ここに、赤穂義士たちが吉良上野介の御首を携え、本懐を遂げたことを報告したのかと思うと、何とも言えない気持ちになる。

というのも、松の廊下で、なぜ刃傷(にんじょう)に至ったのか。

テレビドラマでは、吉良上野介が浅野内匠頭をいじめていた、あるいは浅野内匠頭が短気な性格だったという描かれ方をすることもある。

しかし、実際のところ、その原因については現在もはっきりとした記録が残っているわけではない。

次は、妻・阿久里(あぐり)の墓前へ。

そして、赤穂義士たちが眠る墓所へ向かった。

大石内蔵助の墓前へ。

向かって右手近くには、主君である浅野内匠頭の墓がある。

内蔵助は、主君の近くで眠っている。

それは、せめてもの慰めになっているのだろうか。

義士の墓や供養塔が静かに立ち並ぶ。


その中には、大石内蔵助の長男である大石主税良金(おおいし ちから よしかね)の墓もある。まだ十六歳という若さで、父とともに討ち入りへ向かったのだ。

こちらの四十七士は、はるか兵庫県赤穂の地から江戸へやって来た。

願いは、ただ一つ。主君の仇を討つこと。

以前の私なら、内匠頭には「よい御家来をお持ちですね」と話しかけていた。

そして、義士たちには「ご本懐、おめでとうございます」と、その忠義を称えていた。

けれど、今は違う。

吉良上野介と浅野内匠頭に、あの日、あの時、何があったのか。

幕府の裁きは、本当に正しかったのか。裁きを下す者たちに、葛藤はなかったのか。

義士たちに、討ち入り以外の道はなかったのか。

討ち入りに加わらなかった家臣たちは、何を思っていたのか。

残された家族は、どのような思いを抱えていたのか。

疑問が次から次へと涌いてくる。

令和、平成、昭和でさえ、文化や習慣、価値観は大きく変わる。

まして三百年以上も前の武士の価値観や風習など、私には到底分からない。

けれど、事件に至った背景が分からない今、答えの出ない問いばかりが胸の中に残った。

『無念』だ。

赤穂義士記念館


※写真・ビデオ撮影不可。

義士に関する資料館だ。忠臣蔵について15分程のビデオ上映も行われている。外国語の対応も可能なので、入場時に受付で伝えるとよい。

義士木像館


※写真・ビデオ撮影不可。

江戸時代終わりから明治2年までに制作された四十七義士の木像が収められている。この木像は、初めて訪れた時から変わらず、静かに義士たちの姿を伝えている。

おわりに

忠義とは何だったのか。
正義とは何だったのか。

この問いは、当時の幕府から町人まで、そして現代の私たちにも、いまだ答えの出ないまま投げかけられているようだ。

なぜ松の廊下の事件が起きたのか。

その背景を知る記録は、今のところ明確には残されていない。意図的に残されなかったのか、失われてしまったのか、今となっては分からない。

けれど、答えが出ないからこそ、300年以上経った今も、人々の心に残り続けている事件なのだと思う。

そして、ふと気づいた。

今回、私がお参りしたのは7月。

忠臣蔵が語られることの多い12月でも、浅野内匠頭の命日の3月でもない。

しかも、境内には外国から来られた方の姿が多かった。

「なぜ、今この時期に来たんだろう」

そう思ったら……。

ちょうど東京のお盆の時季だった。

……呼ばれたのかしら。(笑)



泉岳寺
■所在地:東京都港区高輪2-11-1
■アクセス
・都営浅草線「泉岳寺駅」徒歩約1分
・JR山手線・京浜東北線「高輪ゲートウェイ駅」徒歩約7分
・JR「品川駅」徒歩約15分
■赤穂義士墓所:9:00〜15:30(線香料が必要です)
■拝観時間・赤穂義士記念館:9:00〜15:30(入場料が必要です)
※最新情報は公式ホームページをご確認ください。
■公式ホームページ 泉岳寺 公式ホームページはこちら⇒https://sengakuji.or.jp/