千葉県松戸市にある戸定邸を、一人で訪ねた。
そこは旧水戸藩主・徳川昭武氏が暮らした明治時代の邸宅である。
なぜ徳川家の邸宅が松戸にあるのか――その疑問を抱えたまま過ごした雨の日の記録。

千葉県松戸市に、明治時代に建てられた徳川家由来の邸宅が現存しているという。最後の将軍・徳川慶喜公の弟で、徳川昭武公が暮らした私邸だと知った。
「なぜ、徳川家の私邸が千葉県松戸市に?!」
私は無知だから、いつも疑問と驚きでいっぱいである。
平日の午後、一人で訪ねることにした。
JR常磐線と京成電鉄の「松戸駅」東口から、徒歩10分ほどの場所にある戸定邸(とじょうてい)だ。
携帯のマップを頼りに、駅から歩いて向かっていると、携帯電話がブルブルと震えた。
道を間違えたのかと思いきや、「積乱雲と雨雲が接近中」と表示されていた。
空を見上げると、先ほどまでの晴天が嘘のように、濃い灰色の雲が迫ってきている。
梅雨の季節、急な雨は仕方がない。幸い、傘は持っている。
まだ雨粒は落ちていない。けれど、遠くから雷鳴が近づいてきていた。
「急がなくては」
足を速めながら歩いているものの、初めて訪れる場所というのは、歩いても歩いても、なかなか目的地にたどり着かないものだ。
「ドドーン」と雷鳴が響く。小さな稲光も走り始めた。
「これは大変。早く、早く」
自分を鼓舞しながら歩みを進める。
横断歩道を渡り、「戸定邸」と書かれた看板を目印に、最後の坂道を駆け上る。
ポツリ、ポツリと落ちていた雨粒が、やがて小雨となって降り始めていた。
目前に、石段と趣のある藁葺き屋根の門が見えてきた。

急いで登り、門をくぐる。
道に沿って入口を見つけると、安堵感で「ほっ」と胸をなで下ろした。


すると、受付の女性が、優しく「雨が降ってきましたね。大丈夫ですか?」と声をかけてくださった。
到着は、13時35分を過ぎた頃。
戸定邸の入館料は250円。歴史館は展示替えのため休館中だった。
ちょうど、30分からガイドツアーが始まったばかりとのことで、すぐに合流するよう勧められた。
息をつく暇もなく奥へ進むと、畳敷きの広い部屋が現れた。

15人ほどの見学者が集まり、すでにガイドが始まっている。
私は、係の方や周囲の観光客に会釈をして、ツアーに参加させていただいた。
この部屋は、戸定邸の中心となる客間だった。
六十四畳の居間。床の間を背にして座り、庭を眺めるのが最も美しいとされている。

当時は、その場所から江戸川や富士山を望むこともできたという。
欄間は、葵の葉を二枚組み合わせた意匠になっており、部屋の細部にまで、徳川家らしい格式が感じられる。
ところで、当主である徳川昭武公は、徳川慶喜公の異母弟で、16歳年下である。

兄・慶喜公から将来を期待され、1867年にはパリ万国博覧会へ随行した。
若き昭武公は、そのままヨーロッパ各地を巡り、西洋の文化や技術に触れたという。
しかし、その滞在中に大政奉還が行われ、幕府は終焉を迎える。
帰国したときには、将軍という地位そのものが消滅しており、昭武公は、時代そのものが激変する中で、本人の意思とは関係なく、別の人生を歩むことになった人物であった。
雨は豪雨に変わり、雷鳴は何度も響き渡る。
美しく磨かれた窓ガラスは、後から設置されたものだと伺った。
時代ものらしく、外の景色が歪んで見える。
ツアーは続き、客間や昭武公の書斎がある表座敷棟、子供部屋や衣装・化粧部屋として使われた中座敷棟、寝所と妻八重の部屋がある奥座敷棟、そして、掛け湯として使われた湯殿。少し離れた昭武公の母の部屋にあたる離座敷棟、使者の間棟と回った。
あまりの雨の強さに、見終わった部屋から順番に、職員の方も慌てて、当時の雨戸を閉めていく。

戸定邸には二十三部屋がある。
洋間や板の間はない。
使用人の部屋や土間については、見学できなかった。
ツアーは一巡し、入口近くにある内蔵棟を見学した。


そこには「葵紋付長持」が展示されていた。昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王に嫁がれた、徳川慶喜公の孫・喜久子妃の婚礼調度の一つである。
また、手前にある「蟹牡丹唐草文鉢」という大きい丸い鉢は、奥の中庭に置かれ、昭武公らが金魚や睡蓮を育てていたとみられる。いずれも後に寄贈されたものだという。
そして、こちらは、明治時代のテーブル。昭武公が母と共に撮影した際に使われたものだ。

「やっと、徳川家の方々の調度品に触れることができた。」
ツアーは終わり、「雨が納まるまで、ゆっくりして行ってくださいね。」と声をかけてくださった。

他の見学者の方々は、思い思いにくつろいでいる。
私は、再度、一人でゆっくりと部屋を見学して回った。
つい先日、旧古河邸を見に行った。
それから、こちらの戸定邸を見て、不思議だなぁと思う。
徳川将軍家の流れをくむ家なのに、戸定邸があまりにも質素な造りだからである。
徳川昭武公はフランス留学の経験があり、古河虎之助氏はイギリス留学の経験がある。
明治から大正にかけて、どちらも私邸として邸宅建築が残っているが、その性格は対照的だと感じた。
・戸定邸 → 徳川家(旧武家・華族)
政治権力はすでになく、華美を避けた静かな生活。
・旧古河邸 → 古河財閥(実業家・資本家)
権力ではなく、富と洋風の華やかさで存在感を示す邸宅。
同じ「上流の暮らし」でありながら、格式と華やかさという方向性の違いが、そのまま建物にも表れているように感じる。
戸定邸では、仕えていた人々の役割や職位についての説明もあり、そこには家族だけの私邸ではなく、かつての城下にあったような役割の体系が、形を変えて残っていることが感じられた。
政治の中心から離れ、大名から華族へと移り変わる中でも、品格ある暮らしが続いていたことがうかがえた。
実は、家を出る前に考えていた。
語弊があることは承知している。
私が訪れた、まだ数少ない古い建築は、外観こそ当時のままかもしれない。けれど、内装は当時の面影を残しながらも、修繕や改装が行われ、当時実際に使われていた家具や食器がない状態で、「こちらが居間でした」「こちらが寝室でした」と説明を受けても、当時の暮らしを知らない私には、その情景を思い浮かべることが難しい。
時代劇は想像の助けにはなる。けれど、あくまで作られた世界だ。
私が知りたいのは、「実際はどうだったの?」なのである。
生活感のない、ガランとした部屋を見て、本当に面白いのだろうか。そんな思いも、心のどこかによぎっていた。
2026年。今、私は戸定邸の客間に座って、
雨音を聞きながら、しみじみと庭園を眺めている。


徳川慶喜公は、昭武公と親しく、何度か戸定邸を訪ねて来ていたこともあったようだ。
床の間を背にして、ここに座り、コウヤマキやアオギリという木立と青く美しい芝生の庭園を見て、談笑し、穏やかな時間を過ごしていたのだろうと想像すると、
あぁ、ダメだ。
私は、ただのミーハーだ。
やっぱり、なんとも言えない感動が込み上げてくる。
この建物には、資料には書かれない“家”の記憶が染み込んでいる気がした。
たぶん、大雨を降らせ、足止めしてくださったのは、かつてここに住まわれていた徳川家の方なのではないか、と私は思ってしまうのである。
ところで、家に帰って改めて調べてみた。
最初に疑問であった、なぜ旧水戸藩主が千葉県松戸市に住んでいたのか。
徳川昭武公は、幼少の頃は水戸の武家屋敷で育っていた。
しかし、明治維新によって水戸藩は廃され、大名としての政治的な役割は失われる。
その結果、旧大名家は東京近郊で生活する必要が生じ、水戸徳川家もその生活拠点を移すことになった。
そして選ばれた場所の一つが、千葉県松戸の戸定邸である。
申し訳ないが、正直、徳川昭武公のことは存じ上げなかった。
徳川慶喜公にも、特に強い関心があったわけではなかった。
現代では、私とは縁遠い方々。
それでも私邸を訪ねて、ほんの少しだけ、昭武公とその家族の気配・体温・息づかいを感じられた気がした。
思いつきで出かけて行き、この年齢になって、興味のなかった世界の扉が開くのは、本当に楽しい。
少しずつ知識や情報を刻み、点にすらなっていなかったものを見つけ出して、繋げていく。
面白い楽しみを見つけたものだ。
自分でも呆れるようであり、宝物のようでもある。
ガイドの方が、秋もよいと言っていた。
梅、桜、ツツジなど四季折々の自然を楽しむことができる。
そして、歴史館では、幕末から明治にかけての古写真や資料、戸定邸の歴史を語る調度品や文書、昭武公の手元にあった遺品等が公開されているそうだ。今度は、ぜひ展示をしている時期に、改めて来たいと思っている。

今度はもっと感動しそう。
※戸定歴史館の詳細はこちらからご覧ください。
戸定歴史館|松戸市
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